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源啓

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源啓
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 天長6年(829年
死没 貞観11年8月27日869年10月6日
官位 従四位上越前守
主君 文徳天皇清和天皇
氏族 嵯峨源氏
父母 父:嵯峨天皇、母:山田近子
養父:源常
兄弟 有智子内親王潔姫正良親王正子内親王、貞姫、、全姫、、善姫、秀良親王忠良親王業良親王、基良親王、業子内親王、秀子内親王、俊子内親王、芳子内親王繁子内親王、基子内親王、仁子内親王、宗子内親王、純子内親王、斉子内親王、淳王、、澄、、賢、継、若姫、密姫、端姫、盈姫、更姫、神姫、容姫、吾姫、声姫、年姫、良姫
不詳
記、尋
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源 啓(みなもと の ひらく)は、平安時代初期から前期にかけての貴族嵯峨天皇の皇子。官位従四位上越前守

経歴

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母の山田近子は嵯峨天皇の晩年の更衣であったが、啓は特に鍾愛を受けた。勅命により兄の左大臣源常の養子となるが、常は実の子のように親愛し、日常に必要な器具や玩具を全て与え、才学のある大学生を招いて学問の師となし、書籍を学ばせたという。

文徳朝初頭の仁寿元年(851年正六位上から六階昇進して従四位上に叙せられる。斉衡3年(856年越中守天安3年(859年加賀守貞観5年(863年相模守、貞観11年(869年越前守と、文徳朝から清和朝前半にかけて地方官をいずれも遙任で歴任した。

仏教への信仰心が篤く、親密にしていた年齢の近い甥の源直(源常の子)と、共に出家しようと常日頃語りあっていた。しかし、その意志を果たせずにいたところ、病を発して重態となったことから出家し、貞観11年(869年)8月27日卒去享年41。最終官位は従四位上行越前守。

人物

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漢文を非常に愛好したが、射術も得意であり、また音楽の才があり歌も得意であった。性格はつつしみ深く温厚であり、兄弟からも尊敬されたという[1]

官歴

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六国史』による。

系譜

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  • 父:嵯峨天皇
  • 母:山田近子 - 更衣
  • 生母不明の子女
    • 男子:源記
    • 男子:源尋

脚注

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  1. ^ 日本三代実録』貞観11年8月27日条

参考文献

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