田中義忠
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文22年(1553年) |
死没 | 元和元年5月11日(1615年6月7日) |
別名 | 寂真、彦次郎、五郎右衛門 |
戒名 | 道寿 |
墓所 | 満性寺(愛知県岡崎市) |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家康 |
父母 | 田中末広 |
兄弟 | 義綱、義忠 |
妻 | 松平長次の娘 |
子 | 忠勝、義次、松平長正、忠清 |
田中 義忠(たなか よしただ)は、安土桃山時代の武将。徳川家康の家臣。[1]
生涯
[編集]松平信忠・清康・広忠の三代に仕えた田中末広の次男。田中氏は三河国加茂郡菅生村の土豪で、最初藤原南家貞嗣流を称していたが、末広の父・義元の代に、里見田中氏の流れを汲む[要出典]清和源氏義家流に改めた。田中姓は末広の祖父・胤道覚入道崇元が居地にちなんで初めて称したとされる。松平氏(親忠)には義元の代から仕えた。[1]
当初は出家し、満性寺の勝玄の弟子となっていた。元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いで、兄・義綱が戦死すると、徳川家康の命により還俗して田中家の家督を継ぐ。天正3年(1575年)長篠の戦いでは先方衆として武田方武将の首級三つを挙げた。天正18年(1590年)徳川氏の関東移封後は武蔵国足立郡に領地を与えられ、後に家康が駿府に移るとそれに従って遠江国に領地を与えられた。元和元年(1615年)5月11日駿府にて没。[1]