コンテンツにスキップ

益田兼堯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
益田兼堯
雪舟筆『益田兼堯像』(重要文化財益田市立雪舟の郷記念館蔵)
時代 室町時代後期
生誕 不明
死没 文明17年5月23日[1][2][4]1485年7月14日
別名 益一丸[1][2]、松寿[2]、孫次郎[1][2]、兼広[1][2]
戒名 大雄院全国瑞兼[2]
官位 左馬助[1][2]、越中守[1][2]
幕府 室町幕府
父母 父:益田兼理[1][2]、母:出雲国馬田某娘[2]
兄弟 常兼[2]兼堯、忠勝[2]
吉山氏[2]
貞兼[1][2]、男子[2]、男子[2]、女子(陶弘護妻)[2]、女子(益田兼治室)[2]、女子[2]、女子(吉見俊家室)[2]兼久[2]
テンプレートを表示

益田 兼堯(ますだ かねたか)は、室町時代後期の石見国人領主。益田氏当主で第15代七尾城(益田城)城主。

生涯

[編集]
妙義寺(益田市)の前にある益田越中守兼堯の像

益田氏第14代当主・益田兼理の子として生まれる。生年は不明だが、通説で応永27年(1420年)生まれとされる雪舟より2 - 3歳年下と推定される[5]

永享3年(1431年)、大内盛見に従って九州の少弐氏と戦った益田兼理は、盛見と共に戦死した。この時、兼理と共に従軍していた嫡子藤次郎も戦死しており、同7年(1435年)に益田氏の一族・家臣は兼理の遺児松寿に起請文を提出している。松寿は同9年(1437年)に、石見守護山名熙貴烏帽子親として元服して兼堯を名乗るようになった[6]

家督を継いで以来、益田氏の当主を長期にわたって務め、大内氏のみならず室町幕府とも直接よしみを通じて勢力を拡大させた。元服の翌年となる永享10年(1438年)に幕府から領地の安堵を受けると、同永享11年(1439年)に幕府や守護の斡旋によって三隅氏福屋氏周布氏(いずれも益田氏の庶家になる)と関係を改善し、敵対関係にあった石見吉見氏とも緊張緩和に成功している[6][9]

一方で、幕府や大内氏に従って多くの戦いに参戦しており、嘉吉元年(1441年)から寛正4年(1463年)にかけて、地元石見のほかに九州北部・美作国播磨国伊予国河内国紀伊国を転戦[6]。嘉吉2年から3年(1442年 - 1443年)に大内氏に従って九州北部に出陣する際には、父親の敵である少弐氏が相手であるためか、石見・安芸の国人たちに参戦を働きかけた[6]。また、寛正年間に河内で畠山義就と戦った嶽山城の戦いでは、激戦により益田氏にも大きな損害が出たが、その戦功により引付衆の一員に加えられた[6][10]

兼堯は寛正元年(1460年)からは在京していたが、同寛正2年(1461年)には子の貞兼に家督を譲った[11]。この貞兼が、同寛正6年(1465年)に幕府と対立した大内教弘に従ったため、兼堯は京から逃げ出している[6]。これ以降、兼堯は隠居する。

応仁の乱が始まると益田貞兼は大内政弘に従い西軍に属したが、文明2年(1470年)に東軍の誘いで大内教幸(道頓)が周防国で反乱を起こすと、貞兼は陶弘護と協力して反乱を鎮圧した[13]。その一方で、隠居していた兼堯が東軍の細川勝元と通じることで東軍からも所領安堵を得ていた[11][14]

晩年は七尾城尾崎丸の山麓にある大雄庵(たいきあん)で過ごした[11]。兼堯の墓は大雄庵内にある[15][16]

雪舟と親交があったと伝えられており、文明11年(1479年)に益田に招いている[5]。その時に雪舟が描いた兼堯像(益田市立雪舟の郷記念館蔵)[17]は国の重要文化財に指定されている。その他、七尾城跡に近い妙義寺の前に記念像が立てられている。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 今井尭ほか編 1984, p. 346.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 田村哲夫編修 1980, p. 99.
  3. ^ 東京 1935, pp. 363–365.
  4. ^ 萩藩閥閲録』七之四 益田越中、『長陽従臣略系』、『益田兼尭画像』[3]
  5. ^ a b 益田 2017, pp. 80–82, §. 益田兼堯と雪舟の交流.
  6. ^ a b c d e f 益田 2017, pp. 74–76, §. 益田兼堯の苦闘.
  7. ^ 東京 1932, p. 685.
  8. ^ 東京 1932, p. 694.
  9. ^ 『益田家什書』[7][8]
  10. ^ 妙義寺前にある益田越中守兼堯の像の説明碑(益田市観光協会)
  11. ^ a b c 益田兼尭 - コトバンク
  12. ^ 東京 1916, pp. 688–689.
  13. ^ 『益田家什書』[12]
  14. ^ 益田 2017, pp. 85–87, §. 益田貞兼と陶氏・吉見氏.
  15. ^ 歴史・文化 - 益田市[リンク切れ]
  16. ^ 益田兼堯の墓の紹介 - なつかしの石見の国
  17. ^ 益田兼堯像 - 益田市立雪舟の郷記念館

参考文献

[編集]
  • 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多小西四郎竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ISBN 4404012403 
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639 
    • 復刻版 田村哲夫編修 編「永代家老須佐益田家」『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修(復刻版)、マツノ書店、1980年11月。 NCID BN0189824X 
  • オープンアクセス東京帝国大学文学部史料編纂所 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本史料. 第8編之3』東京帝国大学文学部史料編纂所、1916年3月31日https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450585/386 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • オープンアクセス東京帝国大学文学部史料編纂所 編『国立国会図書館デジタルコレクション 史料綜覧』 7巻、朝陽会、1932年3月31日https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1125842/347 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • オープンアクセス東京帝国大学文学部史料編纂所 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本史料. 第8編之17』東京帝国大学文学部史料編纂所、1935年4月25日https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450599/212 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 益田市教育委員会 編『中世益田ものがたり』益田市教育委員会、2017年9月。ISBN 9784990755850