コンテンツにスキップ

第五次イーペル会戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第五次イーペル会戦

西部戦線における協商軍の最終攻勢の地図(1918年)
戦争第一次世界大戦西部戦線
年月日1918年9月28日 - 10月2日
場所ベルギーの旗 ベルギーイーペル
結果協商国軍の勝利
交戦勢力
ベルギーの旗 ベルギー
フランスの旗 フランス共和国
イギリスの旗 イギリス
ニューファンドランド
ドイツの旗 ドイツ帝国
指導者・指揮官
ベルギーの旗 アルベール1世
ベルギーの旗 シリアック・ジラン英語版
イギリスの旗 ハーバード・プルーマー英語版
フランスの旗 ジャン・マリー・デグーフランス語版
ドイツの旗 エーリヒ・ルーペンドルフ
ドイツの旗 ルーブレヒト・フォン・バイエルン
ドイツの旗 フリードリヒ・シクスト・フォン・アルミンドイツ語版
戦力
28個師団 16個師団
損害
イギリス: 4685人
ベルギー: 4500人
ニューファンドランド: 15人[1]
10000人(捕虜

第5次イーペル会戦(だいごじいーぺるかいせん、: Fifth Battle of Ypres)は、第一次世界大戦中、1918年9月下旬から10月にかけてフランス北部とベルギー南部(フランドル地方)で行われた一連の戦闘である。フランドル峰の戦い、フランドル侵攻作戦とも呼ばれる。[2]

背景

[編集]

1918年の春季攻勢が頓挫し、ドイツ軍の士気は急激に低下。その上西部戦線アメリカ軍兵力は増加の一途を辿り、協商国軍とドイツ軍の兵力差は増していた。この数的優位を利用し、フランス元帥フェルディナン・フォッシュ百日攻勢英語版として知られる、ドイツ軍の全戦線への攻勢戦略を立案した。[3]この計画においてイーペル周辺のベルギーイギリスフランス軍リエージュに向け攻勢し、北側から挟み撃ちを形成することとなっていた。[4]イギリス第2軍英語版はドイツ軍の小規模な撤退を追撃し、8月18日にウットゥステンヌで戦闘を行ったが、それ以降戦闘は小康状態となった。この地域に展開する協商国軍は、9月下旬までに十分な休息を取っていた。[5]

戦闘

[編集]

戦闘の経過

[編集]

ベルギー軍のフランダース軍集団は3時間の砲撃を経て、9月28日午前5時30分に攻撃を開始した。[6][7][8]フランダース軍集団は当時、ベルギー軍12個師団、イギリス第2軍の10個師団、フランス第6軍の6個師団により構成されていた。イギリス軍はイーペルとパッシェンデールを結ぶ7.2kmの戦線を、ベルギー軍がそこから北のディクスミュードまでの攻撃を担当した[9]。協商国軍はすぐにドイツ軍防衛線を突破し、9km前進。1918年初頭の撤退で放棄されたパッシェンデール西部が奪還された[10]。 雨が降り始める中、夕方までにイギリス軍はコルテヴィルデ、ザントフォールデ、クライゼッケ、ベセラエレを、ベルギー軍はゾンネベーケ、ポールカッペル、シャープ・バイリー、ハウトルストの森を占領した。

戦線の南側面ではイギリス軍3個師団による小規模な攻勢が行われ、サン・イヴ、メシーヌ、そしてヴィッシェテからホレベーケまでの尾根に進軍した[11]。ドイツ軍の前線はディクスムイデからハウトハルト、ベツェラーレ、ザントフォールデ、ホレベーケまで続いていた[7]

メシネス、テルハンド、ダディゼールは9月29日に陥落し、翌日には占領地は泥沼と化したものの、イーペル周辺の高地はすべて連合軍に占領された[12]10月1日までにレイエ川左岸はコミネスまで占領され、ベルギー軍はムーズレーデからシュターデン、ディクスムイデに至る戦線の東側に展開していた。進軍は10月2日まで続けられたが、ドイツ軍の増援が到着し、更に補給も追いつかなくなっていたために攻撃は中止された。悪路のため、15,000食分の戦闘糧食がベルギーとイギリスの80機の航空機からパラシュートで投下された[13]

この戦闘で協商国軍は最大29km、戦線全体の平均で9.7km前進した。

余波

[編集]

損害

[編集]

イギリス軍は4685人、ベルギー軍は2000人の死者と約10000人の傷病者を出し[14]、ドイツ軍は約10000人の捕虜を出し、300丁の銃、900丁の機関銃鹵獲された[15]

その後の作戦

[編集]

攻勢はコートライの戦い英語版で継続された[16]

戦闘序列

[編集]

協商国軍

[編集]

フランダース軍集団 (司令官: アルベール1世 参謀長: ジャン・マリー・デグーフランス語版

ドイツ軍

[編集]

脚注

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ Nicholson 2007, p. 481.
  2. ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, p. 57.
  3. ^ Sheffield 2011, pp. 315–316.
  4. ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, pp. 2–3.
  5. ^ Harris & Barr 1998, p. 197.
  6. ^ Sonhaus 2011, p. 429.
  7. ^ a b Foerster 1956, p. 617.
  8. ^ AFGG 1928b, p. 15.
  9. ^ Boraston 1920, pp. 285–286.
  10. ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, pp. 65–73.
  11. ^ Boraston 1920, p. 286.
  12. ^ Sheffield 2011, p. 322.
  13. ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, pp. 74–94.
  14. ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, p. 92.
  15. ^ Marix Evans 2002, p. 211.
  16. ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, pp. 269–294.