英義可汗
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英義可汗(えいぎかがん、拼音:Yīngyìkĕhàn、? - 924年)は、甘州ウイグル王国の王(権知可汗)[1]。名は仁美。後唐の荘宗より英義可汗[2]の称号を賜った。『遼史』では烏母主可汗(オルムズ・カガン、Ormuz Qaγan)[3]と表記。
生涯
[編集]後梁の乾化元年(911年)11月[4]、甘州ウイグルは都督の周易言らを遣わして朝貢した。これにより太祖は周易言を右監門衛大将軍同正とし、石寿児と石論思を右千牛衛将軍同正とした。[5]
後唐の同光2年(924年)4月、権知可汗の仁美は都督の李引釈迦、副使の鉄林、都監の楊福安ら66人を派遣して朝貢させ、玉と良馬9匹を献上した。これにより荘宗は司農卿の鄭績、将作少監の何延嗣に節を持たせて仁美を冊立し、英義可汗とした。その年の11月、仁美が卒去すると、弟の狄銀(テギン、Tägin)が後を継いで権知可汗(甘州王)となった。
脚注
[編集]- ^ 山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』p198、護雅夫『中国文明と内陸アジア』p254では「初代可汗」としている。
- ^ 護雅夫は『セヴレイ碑文』にある「インギ・ヤグラカル」を英義建功毘伽可汗(牟羽可汗)ではなく、この英義可汗に比定している。
- ^ 『遼史』本紀第二にみえる「烏母主可汗」の記事は天贊三年(924年)十一月と天贊四年(925年)夏四月なので、仁美ではなく次の狄銀の可能性もある。
- ^ この時点では仁美が甘州可汗かどうかはわからないが、仁美を初代可汗とするならば、周易言を遣わしたのが仁美ということになる。
- ^ 『五代会要』では「周易言をもって右監門衛大将軍同正とし、弟の略麥之,石論思を左千牛衛将軍同正とし、李屋珠,安鹽山を右千牛衛将軍同正とし、左鹽門衛上将軍の楊沼を左驍衛上将軍とし、押領回鶻還番使に充てた」とある。
参考資料
[編集]- 『旧五代史』(外国列伝二)
- 『新五代史』(四夷附録第三)
- 『宋史』(列伝第二百四十九 外国六)
- 『遼史』(本紀第二 太祖下)
- 三上次男・護雅夫・佐久間重男『人類文化史4 中国文明と内陸アジア』(講談社、1974年)
- 榎一雄『講座敦煌2 敦煌の歴史』(大東出版社、1980年、ISBN 978-4500004515)
- 山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』(東京大学出版会、1989年、ISBN 4130260480)
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