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馬武

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
馬武
後漢
捕虜将軍、楊虚侯
出生 不詳
荊州南陽郡湖陽県
死去 61年永平4年)
子張
別名 雲台二十八将第15位
爵位 山都侯〔後漢〕→鄃侯〔後漢〕→楊虚侯〔後漢〕
官位 →侍郎〔更始〕→振威将軍〔更始→劉秀〕→侍中騎都尉〔後漢〕→捕虜将軍〔後漢〕→中郎将〔後漢〕→捕虜将軍〔後漢〕
主君 王匡更始帝→劉秀(光武帝)→明帝
馬檀
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馬 武(ば ぶ、? - 61年)は、後漢の武将。字は子張(しちょう)。南陽郡湖陽県(河南省唐河県)の人(『後漢書』列伝12・本伝)[1]光武帝の功臣であり、雲台二十八将の15位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

事跡

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王莽の末に、竟陵と西陽で挙兵があった時に加わり、緑林軍の兵となった。更始帝が立つと、侍郎となった。23年劉秀と共に昆陽の戦い軍に勝利し、振威将軍となった。尚書令謝躬に従いて、邯鄲に立った群雄王郎を攻めた。邯鄲が落ちた時、劉秀は宴を開き、謝躬を斬ってその軍を収めんと謀るが果たせず、代わりに馬武を高台に招きて曰く「上谷漁陽の突騎を得たが、将軍にこれを率いさせんと思う。どうかな」。馬武は「のろまで臆病、方策も持っていません」と返す。劉秀は「将軍は熟達し、どうして我が属官と同じであろうか」と言い、馬武はこれにより心を寄せた。謝躬が誅されると、馬武は射犬に馳せて帰順した。劉秀はこれを喜び左右に置いた。河北の流賊と戦うに、攻める時は軍峰となり遮る者無く、破れた時はすなわち殿となり、却って敵陣を陥れた。

建武元年(25年)、劉秀が皇帝に即位(光武帝)し、馬武を侍中、騎都尉と為し、列侯と為した。

建武4年(28年)、蓋延と共に劉永を討つ。別に済陰を撃ち、成武・楚丘を下して、捕虜将軍を拝した。

建武5年(29年)、反した龐萌を諸将と共に戦い破った。

建武6年(30年)夏、祭遵耿弇らと共に公孫述を撃つべく天水に入るが隗囂が叛旗を翻し、漢軍に利あらず、隴右を退く。この時、隗囂は追撃するが、馬武は殿となりこれを返り討ちとし、漢軍は長安に戻ることが出来た。

建武13年(37年)、下曲陽に駐屯し匈奴に備えた。軍の役人を殺したことを咎められ、国に就けと詔を受けるが、洛陽に行きて将軍の印綬を返還する。この時、戸五百を削られ楊虚侯と為ったが、洛陽に留まり朝請を奉じた。

建武25年(49年)、中郎将として、武陵の蛮夷を撃った。明帝の時代にも、再び捕虜将軍となり、西羌を撃ち破る功を為した。

永平4年(61年)、死去した。

人柄・逸話

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  • 宴席にて、光武帝が、天下が乱れる機会が無かったら、何になっていたかという問いを各将に向けると、馬武は「武勇がありますので、太守都尉になっていたでしょう」と答えて、光武帝は大笑いとなって「それは無理だ、ひとまず盗賊にはなるなよ。亭長まで自首してくれれば十分だ」と言っている。
  • 酒好きで、隠すところ無く物を言い、酔えば面と向かって他の将の短所を言うが、光武帝はそれを許して笑っている。
  • 意外に、謙虚なところがあり、将軍の印綬を受けて征伐等の任を終えた後、その都度、印綬を返している。

脚注

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  1. ^ 『後漢書』巻22、朱景王杜馬劉傅堅馬列伝第12、馬武伝。

参考文献

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  • 范曄著、『後漢書』。
    • 中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」。
    • 岩波書店『後漢書〈第3冊〉列伝(1) 巻一〜巻十二』2002/5/29 范曄(著), 吉川忠夫(著)