北条久時
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時代 | 鎌倉時代後期 |
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生誕 | 文永9年(1272年) |
死没 | 徳治2年11月28日(1307年12月23日) |
改名 | 久時、因恵・因憲(法号) |
別名 | 赤橋久時、陸奥彦三郎 |
官位 | 従五位下、右馬助、刑部少輔、従五位上、越後守、武蔵守、正五位下 |
幕府 | 鎌倉幕府六波羅探題北方、評定衆、一番引付頭人、二番引付頭人、寄合衆 |
主君 | 惟康親王→久明親王 |
氏族 | 北条氏(赤橋流) |
父母 | 父:北条義宗、母:未詳 |
妻 | 正室:北条宗頼の娘 |
子 | 守時、宗時、種時、英時、時宝、登子(足利尊氏正室)、女子(洞院公守室)、種子(正親町公蔭室)、女子(北条貞規室) |
北条 久時(ほうじょう ひさとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。父は赤橋流の北条義宗。赤橋 久時(あかはし ひさとき)とも[1]。
生涯
[編集]弘安3年(1280年)、執権・北条時宗の命を受けて河内・信濃・日向・紀伊・摂津の5カ国を兼ねる守護となった。
永仁5年(1297年)6月、探題職を辞して鎌倉に帰還し、翌年4月に評定衆の一人に列せられた。その後も引付頭、寄合衆、官途奉行などに任じられて幕政の中枢に参与した。
徳治2年(1307年)3月、36歳で死去。
人物
[編集]- 諱の「久」の字は、元服時に将軍・久明親王より偏諱を受けたものとされる[注釈 1]。ただし久時は惟康親王在任時から官位を受けるなど既に元服していた可能性があり、当初は別の名を名乗っていて後に「久時」に改名した可能性がある。
- 歌人として優れ、『新後撰和歌集』や『風雅和歌集』、『続千載和歌集』、『玉葉和歌集』などの多くに久時の作品が修められている。
- 息子のうち、嫡子である守時は鎌倉幕府最後の執権(16代目)に、英時は鎮西探題に、それぞれ就任した。
- 鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏は娘婿であり、室町幕府2代将軍足利義詮と初代鎌倉公方足利基氏は孫にあたる。
経歴
[編集]※日付=旧暦
- 1288年(正安元)、従五位下に叙し、右馬助に任官。
- 1289年(正安2)、刑部少輔に転任。
- 1293年(永仁元)、3月23日、六波羅探題北方に赴任。
- 1295年(永仁3)、12月29日、従五位上に昇叙し、越後守に遷任。
- 1297年(永仁5)、6月18日、六波羅探題退任。
- 1298年(永仁6)、評定衆と就る。
- 1301年(正安3)、一番引付頭人を兼帯。
- 1302年(乾元元)、一番引付頭人から二番引付頭人に異動。
- 1304年(嘉元2)、寄合衆も兼帯。月日不詳、武蔵守に転任。
- 1305年(嘉元3)、二番引付頭人から一番引付頭人に異動。
- 1306年(徳治元)、正五位下に昇叙。武蔵守如元。
- 1307年(徳治2)3月、出家。法号:因恵、因憲。11月28日、卒去。享年36
画像集
[編集]-
八坂神社 由来説明板(正応2年(1289)北條武蔵守平久時が現地に奉祀された)
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八坂神社、拝殿と本殿(千葉県東金市松之郷1269)
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願成就寺、由来説明版(弘安三年(1280年)5月、久我台城主北条久時によって創建)
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五輪塔(久我城主北条氏三代長時・久時・守時の墓あるいは上総介・三浦介・千葉介の三介の墓)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰 監修『コンサイス日本人名辞典』(第5版)三省堂、2009年、12頁。
- ^ 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年。ISBN 978-4-7842-1620-8。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 東金市ホームページ 市指定文化財 八坂神社本殿)
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足利義詮の系譜 |
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