坪川信三
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坪川 信三 つぼかわ しんぞう | |
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生年月日 | 1909年11月13日 |
出生地 | 福井県足羽郡社村(現福井県福井市) |
没年月日 | 1977年11月20日(68歳没) |
出身校 | 福井師範学校(現福井大学教育学部)卒業 |
前職 | 内務大臣秘書官 |
所属政党 |
(無所属→) (日本民主党→) (自由党→) 自由民主党 |
内閣 | 第2次田中角栄内閣 |
在任期間 | 1972年12月22日 - 1973年11月25日 |
内閣 | 第2次佐藤第2次改造内閣 |
在任期間 | 1968年11月30日 - 1970年1月14日 |
選挙区 |
(福井県全県区→) 旧福井県全県区 |
当選回数 | 10回 |
在任期間 |
1946年4月10日 - 1955年1月24日 1963年11月21日 - 1977年11月20日 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1959年5月2日 - 1963年5月1日 |
坪川 信三(つぼかわ しんぞう、1909年(明治42年)11月13日[1] - 1977年(昭和52年)11月20日)は、日本の政治家。福井市長、自由民主党衆議院議員。福井県出身。
来歴・人物
[編集]1909年11月13日、福井県足羽郡社村種池(現・福井市種池1丁目)に生まれる。1924年3月社村江守尋常小学校高等科卒業。1929年3月福井師範学校(現・福井大学教育学部)卒業。北京で日本居留民の教育に携わり,のち湯沢三千男内相の秘書官となる[2]。1946年4月、福井県全県区から第22回衆議院議員総選挙に立候補し初当選。炭鉱国管疑獄では、1948年(昭和23年)衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問され[3]、その後逮捕されたが起訴猶予処分となった[4]。以後当選10回。郵政政務次官、通商産業委員長を歴任するが1955年不出馬でだるま屋百貨店(西武福井店の前身)の経営に携わる。1958年の衆院選で落選し、1959年5月、福井市長に当選し1期務める。1963年の衆院選で復活し、1968年11月第2次佐藤第2次改造内閣の建設大臣として初入閣。1971年、自民党経理局長に就任。予算委員長を経て1972年12月、第2次田中角栄内閣の総理府総務長官、沖縄開発庁長官として2度目の入閣。1976年再び予算委員長を務める。1977年11月20日肝不全のため死去、享年68。12月19日、衆議院本会議場にて小林進議員により追悼演説が行われる。
経歴
[編集]脚注
[編集]- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、190頁。
- ^ 日本人名大辞典+Plus, デジタル版. “坪川信三(つぼかわ しんぞう)とは”. コトバンク. 2020年2月17日閲覧。
- ^ 『戦後政治裁判史録 1』336-337頁。
- ^ 『戦後政治裁判史録 1』341-342頁。
参考文献
[編集]- 『社南小学校開校百年の歩み』福井市社南小学校開校百年祭実行委員会、1974年12月10日発行
- 田中二郎、佐藤功、野村二郎編『戦後政治裁判史録 1』第一法規出版、1980年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 第084回国会 本会議 昭和52年12月19日(小林進による追悼演説)、2017年9月閲覧。
公職 | ||
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先代 本名武 |
総理府総務長官 第22代:1972年 - 1973年 |
次代 小坂徳三郎 |
先代 本名武 |
沖縄開発庁長官 第3代:1972年 - 1973年 |
次代 小坂徳三郎 |
先代 保利茂 |
建設大臣 第30代:1968年 - 1970年 |
次代 根本龍太郎 |
先代 熊谷太三郎 |
福井県福井市長 1959年 - 1963年 |
次代 島田博道 |
議会 | ||
先代 瀬戸山三男 白浜仁吉 |
衆議院予算委員長 1972年 1976年 - 1977年 |
次代 根本龍太郎 田中正巳 |
先代 福永健司 塚原俊郎 |
衆議院議院運営委員長 1964年 - 1965年 1966年 - 1968年 |
次代 塚原俊郎 伊能繁次郎 |
先代 中村純一 |
衆議院通商委員長 1952年 - 1953年 |
次代 大西禎夫 |