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本多忠政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
本多 忠政
本多忠政像
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正3年(1575年
死没 寛永8年8月10日1631年9月6日
別名 平八郎(通称[1]、家忠
墓所 兵庫県姫路市書写山圓教寺
官位 従五位下美濃守従四位下侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠家光
伊勢桑名藩主→播磨姫路藩
氏族 本多氏
父母 父:本多忠勝、母:阿知和玄鉄の娘・見星院
兄弟 小松姫、もり姫、忠政忠朝本多信之室、松下重綱室、蒲生瀬兵衛室
正室松平信康の娘・妙高院
栄寿院忠刻円照院政朝忠義
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本多 忠政(ほんだ ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名伊勢国桑名藩の第2代藩主。後に播磨国姫路藩の初代藩主。忠勝系本多家宗家2代。正室は家康の孫・熊姫である[2]

生涯

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天正3年(1575年)、徳川家康の重臣・本多忠勝(後に桑名藩の初代藩主)の長男(第3子)として生まれる[1]

天正18年(1590年)の小田原征伐に初陣し、武蔵岩槻城攻めで功を立てた[1]。慶長3年(1598年)3月、従五位下に叙せられて美濃守と称した[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して中山道を進み、第2次上田合戦にも従軍[1]。慶長14年(1609年)6月に父が隠居したため、家督を相続して桑名藩の第2代藩主となる[1]

大坂の陣では伊勢国の諸大名を率いて参加し、冬の陣では慶長19年(1614年)10月11日に徳川軍の先鋒を命じられた[1]。忠政は大坂城包囲においては北側の天神橋方面に陣取っていた。冬の陣が終わって家康が帰途についた際、桑名で1泊している[1]。冬の陣の休戦和議締結で大坂城の堀を埋め立てた際、埋め立て奉行を松平忠明たちと担当している。

慶長20年(1615年)の夏の陣では京都御所の警備を勤め、その後に大和路勢二番手大将として5月7日に豊臣方の薄田兼相毛利勝永らと戦った[1]。薄田軍との合戦には勝利したが、毛利軍との戦いには敗れている。この合戦で忠政は292の敵首をとった[3]。翌日の天王寺・岡山の戦いにも参加した。

戦後には、それらの功績を賞されて西国の押さえとして、元和3年(1617年)7月14日に姫路城主となって15万石を領した[3][注釈 1]。寛永3年(1626年)8月に従四位下に叙せられ侍従に任官した[3]

寛永8年(1631年)8月10日に姫路で死去した[3]享年57[2]。嫡男・忠刻が寛永3年(1626年)に早世していたため、家督は次男・政朝が継いだ。

系譜

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子女は3男2女

父母

正室

子女

養子

  • 本多利友 - 旗本野条成宣の子。忠政の烏帽子子となって本多氏を称した。旗本本多八十郎家の祖。

墓所・霊廟

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  • 兵庫県姫路市の圓教寺に本多家廟屋があり、忠政の廟所は寛永8年(1631年)に建立された[5]

脚注

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注釈

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  1. ^ この時、嫡男・忠刻も別途10万石を与えられ、さらに次男・政朝(忠政の弟・忠朝の遺領を継いでいた)は上総大多喜から播磨龍野5万石に移され、娘婿・小笠原忠真信濃松本から播磨明石10万石に移されたため、忠政は実質40万石の大名に相当する位置づけが与えられた[4]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 郡 2009, p. 18.
  2. ^ a b 郡 2009, p. 20.
  3. ^ a b c d 郡 2009, p. 19.
  4. ^ 小宮山敏和『譜代大名の創出と幕藩体制』吉川弘文館、2015年、51-52頁。 
  5. ^ 本多家廟屋”. 姫路市. 2021年1月12日閲覧。

参考文献

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  • 郡義武『桑名藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2009年11月。ISBN 978-4-7684-7117-3