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松平明矩

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松平 明矩
松平明矩像(孝顕寺蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 正徳3年8月1日1713年9月20日
死没 寛延元年11月17日1749年1月5日
改名 金之助(幼名)、義知(初名)、明矩
別名 子成、播山、蘭谷(号)
戒名 正眼院殿郭然無性大居士
墓所 兵庫県姫路市景福寺前の景福寺
官位 従五位下相模守兵庫頭土佐守従四位下大和守侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
陸奥白河新田藩主→陸奥白河藩主→播磨姫路藩
氏族 越前松平家(太田家→結城家)
父母 松平知清:本多氏
養父松平基知
兄弟 明矩宗矩長煕松平基知養女
正室幸姫小笠原忠基の娘)
側室:成田氏、田畑氏
朝矩矩道由良貞通、常、綾姫、盈子
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松平 明矩(まつだいら あきのり)は、江戸時代中期の大名陸奥国白河新田藩主、陸奥白河藩主、播磨国姫路藩主。官位従四位下大和守侍従結城松平家4代。

生涯

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正徳3年(1713年)、陸奥白河藩支藩の白河新田藩主・松平知清の長男として誕生した。母は側室の本多氏。

享保6年(1721年)の父の死に伴い新田藩主となるが、本家白河藩に子がいないため、享保12年(1727年)に伯父にあたる松平基知の養子となり、享保14年(1729年閏9月2日、白河藩を相続する。知清または基知から偏諱を授かってこの頃までは義知(よしちか、初名)と名乗っていたが、基知の死後にその1字を憚ったのか、のちに明矩に改めている。寛保元年(1741年11月1日、姫路に国替となった。

延享2年(1745年)、9代将軍・徳川家重が将軍に就くと、直後に来日した朝鮮通信使の接待役を命じられたが、費用がないため藩領に臨時の御用金を課した結果、大一揆が発生し、その最中の寛延元年(1748年)に36歳で死去した。

家督は幼少の長男・朝矩が継いだ。

官歴

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  • 享保10年(1725年):従五位下・相模守、兵庫頭
  • 享保12年(1727年):土佐守
  • 享保14年(1729年):従四位下・大和守
  • 元文元年(1736年):侍従

系譜

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墓所

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明矩の墓所は姫路城の南西の景福寺山にある。