法如
法如 | |
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1707年2月11日(グレゴリオ暦換算)[1] - 1789年12月10日(グレゴリオ暦) | |
幼名 | 春千代満 |
法名 |
法如(本願寺住職継承後) 寂峰(顕証寺住職時代) |
院号 | 信慧院 |
諱 | 光闡 |
尊称 | 法如上人 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
寺院 | 西本願寺 |
師 | 寂円 |
弟子 | 文如、闡教、法依 |
廟 | 大谷本廟 |
法如(ほうにょ)は、江戸時代中期の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第17世宗主。西本願寺住職。諱は光闡。院号は信慧院。法印大僧正。父は第13世良如の10男寂円。九条稙基の猶子。母は円成院(法寿)。妻は如教(誠心院)。第18世文如は長男。子は顕証寺住職闡教、法依。
生涯
[編集]播磨国亀山(現・兵庫県姫路市)の本徳寺第8代住職寂円(大谷昭尊)の次男として生まれる。得度の後、河内国顕証寺に入り寂峰として顕証寺第11代を継職するが、その直後に本願寺16世湛如が急逝する。跡を継いだ弟の静如は問題が多く間もなくして引退した。そのために本願寺の歴代には含まれていない。そこで寛保3年(1743年)、37歳の時に顕証寺住職を辞して法如として第17世宗主を継いだ。この際、慣例により内大臣九条稙基の猶子となる。
83歳で命終するまで、47年の長期にわたり宗主の任にあたった。この間、明和の法論をはじめ、数多くの安心問題に対処し辣腕を振るったが、その背景にある宗門内の派閥争いを解消することは出来なかった。大きな業績としては、阿弥陀堂の再建や『真宗法要』などの書物開版などがある。男女30人の子をもうけて、有力寺院や貴族との姻戚関係を結ぶことに努めた。
寛政元年(1789年)10月24日に示寂した。文如が第18世となる。
なお、子の法依は本徳寺第13代住職に就いている。
阿弥陀堂再建
[編集]宗祖親鸞の五百回忌を前に、元和4年(1618年)に建てられた阿弥陀堂の再建を企図。継職後直ちに幕府に再建を働きかけ、およそ10年にわたる再建工事がすすめられた。旧阿弥陀堂は解体され、西山別院に移設(現存)。それまで、寛永10年(1633年)に建立された御影堂(現存)と比べて余りに小さかった阿弥陀堂は、再建時に堂宇が拡張され、東西42m、南北45m、高さ25mとなった。
年表
[編集]- 寛延元年(1748年) - 阿弥陀堂再建の口上書を幕府に提出、阿弥陀堂再建の承認を得る。
- 宝暦元年(1751年) - 集会所に阿弥陀堂の諸尊像を移設。旧堂宇を西山別院に移建する願を幕府に提出。
- 宝暦4年(1754年) - 阿弥陀堂再建の地盤固めのため、妙法院大仏領境内地の砂利を使う。
- 宝暦5年(1755年) - 基礎の石築開始。
- 宝暦6年(1756年) - 石築完成。
- 宝暦8年(1758年) - 再建の手法に紀伊大工の「鏡架構架法」を採用、立柱が建つ。
- 宝暦9年(1759年) - 阿弥陀堂上棟式、屋根の瓦葺開始。対面所を修理、経蔵を移転。
- 宝暦10年(1760年) - 阿弥陀堂落慶、宗祖影像を阿弥陀堂に遷し、御影堂の修復に着手。
- 明和元年(1764年) - 本尊「阿弥陀如来立像」を御影堂に遷し、堂内の塗箔工事等に着手。
- 明和3年(1766年) - 阿弥陀堂の塗箔工事など完了。本尊還座を終える。
脚注
[編集]- ^ 本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生年を用いる。
関連項目
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