源行任
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源 行任(みなもと の ゆきとう、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族。醍醐源氏、三品・有明親王の曾孫。中宮亮・源高雅の子。官位は正四位上・播磨守。
経歴
[編集]一条朝末の寛弘7年(1010年)能登守に任ぜられる。三条朝では皇太后・藤原彰子に皇太后宮大進として仕え、長和5年(1016年)正五位下に叙せられた。
後一条朝に入ると越後守に任ぜられるが、寛仁3年(1019年)五節の舞(豊明節会に行われる少女の舞い)に舞姫を出すように命ぜられるが、これを辞退したため釐務を停められる。治安3年(1023年)備中守に任じられると、今度はその秋に受領として五節の舞に舞姫を出している[1]。
典型的な富裕受領で、富小路西・上東門大路より北にある故入道大相国(藤原道長か)の邸宅を手に入れて居住し、世上この邸宅は御倉町と称されていたが、近江守在職中の長元4年(1031年)7月7日にこの邸宅を焼失した[2]。その後も、丹波守・播磨守と、後朱雀朝・後冷泉朝にかけて近国の受領を歴任し、位階は正四位上に至る。
官歴
[編集]- 寛弘7年(1010年) 閏2月19日:見能登守[3]
- 時期不詳:皇太后宮大進(皇太后・藤原彰子)
- 長和5年(1016年) 6月2日:正五位下(上東門院一条院還御賞)[2]
- 寛仁3年(1019年) 9月23日:見越後守[4]。10月27日:釐務停止[2]
- 治安3年(1023年) 7月17日:見備中守[2]
- 万寿3年(1026年) 正月19日:止太皇太后宮権大進[4]
- 長元4年(1031年) 正月3日:見近江守[4]
- 長元9年(1036年) 4月22日:見丹波守[4]
- 永承2年(1047年) 2月7日:見播磨守[5]
- 時期不詳:正四位上[6]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。