源高房
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源 高房(みなもと の たかふさ、生年不詳 - 承保4年9月13日(1077年10月2日))は、平安時代中期から後期にかけての貴族。醍醐源氏、但馬守・源行任の子。官位は正四位上・但馬守
経歴
[編集]後朱雀朝にて、左兵衛尉・左近衛将監と武官の判官(三等官)を務める。のち、巡爵により従五位下に叙せられ、加賀守として受領となった。永承6年(1051年)関白・藤原頼通の娘である藤原寛子が後冷泉天皇の皇后に冊立されると、高房は皇后宮大進(のち皇后宮亮)に任ぜられ、これに仕える。この間、備後守も兼ねている。
その後、後冷泉朝後期から白河朝前期にかけても、但馬守・丹波守など受領を歴任したほか、時期は不明ながら内蔵頭・宮内卿などの京官を務め、位階は正四位上に至る。
承保4年(1077年)9月13日卒去。最終官位は但馬守正四位上。
官歴
[編集]- 長暦3年(1039年) 閏12月20日:左兵衛尉[1]
- 長久元年(1040年) 6月8日:左近衛将監[1]
- 時期不詳:従五位下
- 永承2年(1047年) 2月7日:見加賀守[2]
- 永承6年(1051年) 2月:皇后宮大進(皇后・藤原寛子)[3]
- 天喜3年(1055年) 3月25日:見備後守[4]
- 天喜5年(1057年) 2月2日:見皇后宮亮[4]
- 康平5年(1062年) 3月8日:見但馬守[4]
- 治暦4年(1068年) 5月11日:見丹波守[5]
- 延久4年(1072年) 日付不詳:但馬守[6]
- 時期不詳:正四位上。内蔵頭。宮内卿[7]
- 承保4年(1077年) 9月13日:卒去(但馬守正四位上)[8]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。