コンテンツにスキップ

徳川斉昭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。240f:8f:236d:1:259f:aec0:ba64:d10a (会話) による 2022年7月7日 (木) 08:58個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
徳川 斉昭
時代 江戸時代後期(幕末
生誕 寛政12年3月11日1800年4月4日
死没 万延元年8月15日1860年9月29日
改名 虎三郎、敬三郎(幼名)→松平紀教→徳川斉昭
別名 子信、景山、潜閣
諡号 烈公
神号 押健男国之御楯命
奈里安紀良之命
墓所 瑞龍山
官位 従三位左近衛権中将左衛門督参議権中納言、贈従二位権大納言、贈従一位、贈正一位
幕府 江戸幕府:海防参与、軍制改革参与
主君 徳川家斉家慶家定
常陸国水戸藩
氏族 徳川氏水戸徳川家
父母 父:徳川治紀、母:外山補子(瑛想院)
養父:徳川斉脩
兄弟 斉脩松平頼恕斉昭松平頼筠、申之丞、鄰姫(鷹司政通室)ほか
御簾中登美宮
側室:万里小路睦子ほか
慶篤池田慶徳慶喜松平直侯池田茂政松平武聰喜連川縄氏松平昭訓松平忠和土屋挙直徳川昭武松平喜徳松平頼之ほか
テンプレートを表示
茨城県水戸市の千波公園にある徳川斉昭と息子の七郎麿(後の将軍徳川慶喜)の像

徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。最後の将軍徳川慶喜の実父である。

略歴

寛政12年(1800年3月11日徳川治紀の三男として江戸小石川邸(上屋敷)にて生まれる。母は権中納言外山光実の養女補子(町資補の娘)。幼名虎三郎のち敬三郎。初めは父治紀より偏諱を受けて松平紀教(まつだいら としのり)、藩主就任後は将軍徳川家斉より偏諱を受けて徳川斉昭と名乗った(本項ではすべて「斉昭」で統一する)。諡号烈公は子信、は景山、潜龍閣。

神号は「押健男国之御楯命」(おしたけおくにのみたてのみこと)・「奈里安紀良之命」(なりあきらのみこと)など。官位従三位権中納言だが、薨後、正一位権大納言が贈られている。

藩政改革に成功した幕末期の名君の一人である。しかし将軍継嗣争い大老井伊直弼との政争に敗れて永蟄居となり、そのまま死去した。

生涯

家督相続

治紀の子たちの侍読を任されていた会沢正志斎のもとで水戸学を学び、聡明さを示した。治紀には成長した男子が4人いた。長兄斉脩は次代藩主であり、次兄松平頼恕文化12年(1815年)に高松藩松平家に養子に、弟松平頼筠は文化4年(1807年)に宍戸藩松平家に養子に(両松平家とも水戸徳川家御連枝)、と早くに行く先が決まったが、三男の斉昭は30歳まで部屋住みであり、斉脩の控えとして残されたと思われる。なお、生前の治紀から、「他家に養子に入る機会があっても、譜代大名の養子に入ってはいけない。譜代大名となれば、朝廷と幕府が敵対したとき、幕府について朝廷に弓をひかねばならないことがある」と言われていたという(『武公遺事』)。

文政12年(1829年)、斉脩が継嗣を決めないまま病となった。大名昇進を画策する附家老中山信守らを中心とした門閥派より、御簾中峰姫の異母弟恒之丞を養子に迎える動きがあったが、学者や下士層は斉昭を推し、斉昭派40名余りが無断で江戸に上り陳情するなどの騒ぎとなった。斉脩の死後ほどなく遺書が見つかり、斉昭が家督を相続した。天保2年(1832年)12月3日、一品織仁親王の末娘登美宮御簾中に迎えた。

藩政改革

藩政では藩校弘道館を設立し、門閥派を押さえて、下士層から広く人材を登用することに努めた。こうして、戸田忠太夫藤田東湖安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった比較的軽輩の藩士を用い藩政改革を実施した。

斉昭の改革は、水野忠邦天保の改革に示唆を与えたといわれる。天保8年(1837年7月、斉昭は、

  1. 「経界の義」(全領検地)
  2. 「土着の義」(藩士の土着)
  3. 学校の義(藩校弘道館及び郷校建設)
  4. 「総交代の義」(江戸定府制の廃止)

を掲げた。また、「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉の設置をするなどした。さらに国民皆兵路線を唱えて西洋近代兵器の国産化を推進していた。蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言している。その影響力は幕府のみならず全国に及んだ。これにより水戸、紀州、尾張の附家老5家の大名昇格運動は停滞する。

宗教の面では、寺院釣鐘仏像を没収して大砲の材料とし、廃寺や道端の地蔵の撤去を行った。また、村ごとに神社を設置することを義務付け、従来は僧侶が行っていた人別改など民衆管理の制度を神官の管理へと移行した。このような仏教抑圧および神道重視の政策は、明治初期の神仏分離廃仏毀釈の先駆けとなった。この政策は、藩政を牛耳る家老たちと、藩政改革を進めようとする中下級の藩士たちの間で激しい派閥抗争が繰り広げられた中、藩を一つにまとめる必要もあって行われた。

しかし、弘化元年(1844年)に鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などを罪に問われて、幕命により家督を嫡男の慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられた。その後、水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握って専横を行なうが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって弘化3年(1846年)に謹慎を解除され、嘉永2年(1849年)に藩政関与が許された。

幕政参与

嘉永6年(1853年6月マシュー・ペリー浦賀来航に際して、老中首座阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張した。このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上している(うち1門が水戸の常磐神社に現存)。江戸の石川島で洋式軍艦「旭日丸」を建造し、幕府に献上した。安政2年(1855年)には那珂湊反射炉を建設し、鉄製大砲を鋳造した[1]

安政2年(1855年)に軍制改革参与に任じられるが、同年の安政の大地震で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーンが死去してしまうなどの不幸もあった。安政4年(1857年)に阿部正弘が死去して堀田正睦が名実共に老中首座になると、さらに開国論に対して猛反対し、開国を推進する彦根藩井伊直弼と対立する。

さらに将軍徳川家定の将軍継嗣問題で、紀州藩主徳川慶福を擁して南紀派を形成する井伊直弼らに対して、実子である一橋家当主・徳川慶喜を擁して一橋派を形成し、直弼と争った。しかしこの政争で斉昭は敗れ、安政5年(1858年)に直弼が大老となって日米修好通商条約を独断で調印し、さらに慶福(家茂)を将軍とした。

このため、安政5年(1858年)6月24日に将軍継嗣問題及び条約調印をめぐり、慶篤や甥である尾張藩主徳川慶恕と共に江戸城無断登城の上で井伊直弼を詰問したため、逆に直弼から7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ[2]、幕府中枢から排除された。

孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことに直弼が激怒、安政6年(1859年)には、水戸での永蟄居を命じられることになり、事実上は政治生命を絶たれる形となった(安政の大獄)。

最期

万延元年(1860年8月15日、蟄居処分が解けぬまま水戸で急逝した。享年61(満60歳没)。満月を観覧し、に立った後に倒れたと伝えられ、壮年の頃から狭心症の症状がみられることから、死因は心筋梗塞と推定されている[3]脚気も患っており、長期間に及ぶ蟄居が相当なダメージになっていたと考えられる。

3月に起こった桜田門外の変から間もない時期であったために、彦根藩士に暗殺されたのではないかとの風説があったが、当時の彦根藩の調査では否定されている。

人物・逸話

徳川斉昭の筆跡
  • 諡号の「烈公」にも示されるように、まさに幕末をその荒々しい気性で生き抜いてきた人物であった[要出典]
  • 斉昭は生涯に男女あわせて37人の子供をもうけたが、その多くが各地の藩主になったり、藩主に嫁いだりしている[要出典]
  • 礼儀作法に厳しい性格であるため、幼い頃、寝相が悪かった息子の慶喜が寝る際に、枕の両脇に剃刀を立てて寝かせていた[4]
  • 幼少期から水戸学の影響を受けたため、開国には猛反対していたが、西洋の物品に対しては大いに興味を示したといわれる[5]。また、越前藩松平春嶽あてに、本当は開国しかないが私は攘夷派の頭目と攘夷派の人々に思われているため、開国と言えないので貴君らが開国を計らって欲しいとの手紙を書いている。
  • 幕末期に人材の少なかった徳川家では唯一のカリスマ性と行動力を持ち合わせた人物であり、その死は幕府にとって痛手となった。斉昭の死後、水戸藩では内紛が起こり、彼が見出した人材はことごとく自滅することとなる[5]
  • 系図上の先祖である徳川光圀と共に、茨城県常磐神社に祭神として祀られている。[6]
  • 斉昭の詠んだ歌を刻んだ歌碑の前段詞から、水戸藩中屋敷址に弥生という地名が生まれたため、弥生時代の間接的な名付け親である[7]
  • 斉昭は寵愛していた側室の地位を引き上げた。その側室は大喜びして金を無心したので斉昭は理由を尋ねた。すると「今までより地位が上がりましたので、衣装に費用が多くかかりますから」と答えた。斉昭は「それには及ばぬ。これまでの衣装で我が前に務めよ」と申し渡したが、側室は「それでは体面が保てず、奉公が務まりません」と答えた。すると斉昭は激怒し「このようなときにおねだりするとは心違いも甚だしい。奉公が務まらないというならば出仕は無用だ」と述べて出て行った。その後、斉昭はその側室の目通りを許さなかったという[8]
  • 水戸家は毎年幕府から1万両の援助金を受けていた。だが斉昭は「祖公以来、35万石で暮らすことが本意であり、倹約するのはこの石高で暮らすためである。以後は奢侈を固く禁止し節約を心がけて拝領した石高で暮らすべきである。その事始めとして、1万両は幕府に返上し、持高に応じた忠勤に励むよう。諸役人はこの趣旨に沿って生計をたてよ」と述べた[9]
  • 水戸家を相続して間もない頃、家臣らは先代藩主の兄斉脩が食べていたものと同じ食事を用意した。斉昭はそれを見て「余はこれまで日陰者であったが、兄が亡くなってはからずも水戸家を継いだ。御三家の格式は非常に重いので表向きのことは変更できないだろうが、内向きのことである食事などには金などかけることはない」と述べ、翌日から部屋住みの頃の食事に変えさせた[9]
  • 武術にも堪能で、自ら神発流砲術、常山流薙刀術を創始し、弘道館で指導させた[10]
  • 大の肉好きとして知られており、彦根藩から近江牛を贈られた時には、返礼の手紙を書いている[11]
  • 自らの庭にて乳牛を飼っており、健康のため、牛乳ギヤマンの器に入れて飲んでいた。斉昭の著書である「菜食録」では、牛乳は精力剤であるとの説明がある[12]
  • 水戸藩領内の景勝地『水戸八景』を選定した。[13]
稲束と農夫をかたどった農人形。農夫が手にした裏返しの傘にご飯を供える
  • 藩政の改革の際、農本主義を唱え、農民五穀への感謝から、農民をかたどった銅の人形をつくらせ、食事を始める前に人形の笠の中に一飯を供えることを習慣としていた[14]。その遺徳をしのんで明治末期から素焼きや木彫りの「農人形」が作られはじめ、水戸市の郷土玩具になった[14]

官職および位階等の履歴

※日付=明治5年12月2日までは旧暦

家系

脚注

注釈

出典

  1. ^ ワークス 編『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典―8 茨城県』ゼンリン、1997年3月20日、43頁。 NCID BN16121586 全国書誌番号:98037750
  2. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200824-00194508/ 2020年12月3日閲覧。 
  3. ^ 『水戸市史 中巻(四)』 第二一章・第七節「斉昭の生涯」
  4. ^
    • 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 第4巻』平凡社〈東洋文庫 107〉、1968年、p416
    • 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980年、日本放送出版協会〈NHKブックス368〉
    • 『人物日本の歴史19』小学館、1974年。
  5. ^ a b 鈴木一夫『水戸黄門―江戸のマルチ人間・徳川光圀』中公文庫
  6. ^ 水戸光圀公と斉昭公、常磐神社公式HP
  7. ^ 弥生式土器発掘ゆかりの地
  8. ^ 大郷信斎. “『続道聴塗説』”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. 2015年3月8日閲覧。
  9. ^ a b 甲子夜話松浦清、続編
  10. ^ 綿谷雪・山田忠史 編『増補大改訂 武芸流派大事典』 東京コピイ出版部 1978年
  11. ^ ジュラ・高橋洋 (2014年7月17日). “肉食のルーツ 彦根城はなぜ残ったのか”. 朝日新聞. オリジナルの2015年3月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150308032906/http://www.asahi.com/shopping/travel/SDI201407140704.html 2014年7月27日閲覧。 
  12. ^ 細野明義. “我国における牛乳と乳製品普及の系譜” (PDF). 日本乳業技術協会. 2015年6月13日閲覧。
  13. ^ 【文化財講座】水戸八景講座”. ひたちなか市公式ホームページ. ひたちなか市. 2016年7月14日閲覧。
  14. ^ a b 農人形コトバンク

参考文献

  • 但野正弘『水戸烈公と藤田東湖『弘道館記』の碑文』(錦正社、2002年8月) ISBN 978-4-7646-0261-8
  • 安見隆雄『水戸斉昭の『偕楽園記』碑文』(錦正社、2006年7月) ISBN 978-4-7646-0271-7
  • 宮田正彦『水戸学の復興―幽谷・東湖そして烈公―』(錦正社、2014年7月) ISBN 978-4-7646-0118-5

関連項目

人物

文献

  • 『徳川斉昭・伊達宗城往復書翰集』 校倉書房 1993年

登場するフィクション作品

映画

ドラマ

小説

漫画

徳川慶喜の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 徳川宗翰
 
 
 
 
 
 
 
8. 徳川治保
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 美衛
 
 
 
 
 
 
 
4. 徳川治紀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 一条道香
 
 
 
 
 
 
 
9. 一条溢子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. 池田静子
 
 
 
 
 
 
 
2. 徳川斉昭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 烏丸光胤
 
 
 
 
 
 
 
10. 町資補
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 真如
 
 
 
 
 
 
 
5. 外山補子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 江戸幕府15代将軍
徳川慶喜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 霊元天皇
 
 
 
 
 
 
 
12. 職仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 右衛門佐局
 
 
 
 
 
 
 
6. 織仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 後藤左一郎
 
 
 
 
 
 
 
13. 菖蒲小路
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 登美宮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14. 安藤定弘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. 清瀧